“金融危機の歴史”
過去の金融危機について歴史を振り返ることに意味がないと考える方は、恐らくその危機に
『再現性がない』と考えているからではないでしょうか?
しかし、まったく同じ原因で金融危機に陥るといった再現性はないものの、
往々にして資産価値(価格)の反転機会が時間の経過とともに訪れていることも事実です。
言い換えれば、下落局面が訪れても
『投資のチャンスだ』
という捉え方さえ出来れば、投資に対する姿勢も大きく変わることでしょう。
株価に大きな影響を与えた主な金融危機について、
いくつかのパターンに分けて振り返ってみたいと思います。
1.公的資金の注入
円高不況を打開するため、1985年に日銀(日本銀行)は公定歩合を2.5%に引き下げました。それにより、銀行や企業の膨大な資金が土地や株取引の購入にまわったことで価格(株価)が泡が膨らむように上昇したものの、その後の公定歩合引き上げなどから価格が暴落しました。これにより、貸し付けたお金が回収できなくなった(不良債権化)銀行が貸し出しに慎重になった結果、資金不足となった企業が相次いで倒産しました。
日経平均株価は、1989年12月末に38,915円を記録後、2024年までの約34年間、最高値を更新することはありませんでした。
ITバブル後の低金利局面であった米国において、低所得者向けの高金利住宅ローン(サブプライムローン)の融資基準を緩和したことにより、これらを組み込んだ証券化商品が多数発行されて結果的にこのような証券化商品の購入が過熱化していました。2007年以降、住宅市場の悪化による住宅ローン問題を発端として、投資銀行大手であったリーマン・ブラザーズが2008年9月に負債総額6,000億ドル超となる史上最大級規模での経営破綻しました。市場が想定していなかった規模での破綻によって、世界規模の金融・経済危機が連鎖的に発生し、資金調達ができなくなった市場参加者がそれまで保有していた資産の投げ売りを行ったことで、すべての資産価格の下落につながりました。
日経平均株価は、破綻前に12,000円台でしたが、その1ヵ月後には一時6,000円台まで下落、その後4年ほど低迷を続けました。
ユーロ圏を中心とした欧州を揺るがした経済危機の連鎖のこと。2009年10月にギリシャの政権交代を機に、同国の財政赤字が公表値よりも大幅に膨らむといった財政問題に端を発し、その後、アイルランドやポルトガル、スペイン、イタリアなどに債務問題が飛び火、南欧からユーロ圏、欧州へと広域に連鎖していきました。
元々、ユーロ導入後のソブリン債(政府が発行する債券)は高い信用力がありました。しかし、ユーロ圏に属する国単位でみると財政上の構造問題を抱えているところがあり、それを未解決のまま放漫財政を続けていったという欧州特有の根本的な問題を露呈することになりました。
この危機は直接的な日本への影響はなかったものの、「欧州系銀行の経営不安から世界の金融システム危機へつながるのでは?」「金融システムの機能低下から世界で実体経済原則になるのでは?」「債務危機の連想から国の借金が世界一(公的債務残高の対GDP比が世界一高い)の日本国債への飛び火があるのでは?」といった不安が市場心理に広がりました。
2.中央銀行による大規模な資金供給や財政出動
IT(Infomation Technology)とは情報技術を表す言葉で、米国における通信技術の発展と通信関連の規制緩和を背景とした米国市場を中心に起こったインターネット関連企業の実需投資や株式投資において、実態を伴わない異常な高値になったことを指します。多くの企業が利益の裏付けがなく、事業展開に失敗して破綻したり、不正会計が発覚したりして相場崩壊のきっかけとなりました。ハイテクバブル、ITバブルとも呼ばれますが、英語では「dot-com bubble」と呼ばれています。
米国ナスダック指数は2000年3月をピークに2002年10月に1,114ポイントの底値を記録するまで、ほぼ2年半の下落(▲78%)となりました。1996年12月 米FRB議長であったグリーンスパン氏の講演会で当時の株式市場を「根拠なき熱狂」と表現したことは有名です。
1964年(昭和39年)後半から1965年(昭和40年)に掛けておきた不景気の通称です。高度経済成長期の最中、東京オリンピック開催などに伴う国民所得の増加等によって証券市場も活性化されましたが、オリンピック終了後、日本経済は低迷しはじめ、山一證券の赤字や大手企業の倒産、さらに証券市場の低迷によって大手証券会社各社が赤字転落となりました。日銀(日本銀行)は公定歩合を1%以上も下げましたが効果は薄かったため、政府は1965年5月に取り付け騒ぎが起きた山一證券への日銀特融を決定、7月には戦後初である赤字国債の発行を決めました。これらを受けて同月を底値に株価は上昇に転じました。
この一連の取り組みが、“金融機関や大手企業は最終的に政府によって守られる”といった倫理感の欠如を起こさせる一因となったともいわれています。
第一次世界大戦終結後、米国は長期の好景気となり「黄金の20年代(Golden Twenties)」などと呼ばれていましたが、1929年10月の株価暴落を発端として不景気になったことで、米国と経済的関係があった世界中の資本主義国にも大きな影響を与え、世界的に深刻な経済恐慌となりました。
NYダウ工業株30種平均株価は1929年9月3日に381ドル17セントと当時の史上最高値を記録、その後も景気や株式市場に楽観論が引き続き唱えられるなか、「暗黒の木曜日(ブラック・サーズデー)」として有名な10月24日を迎え、1932年7月の安値にかけて▲89%の下落となりました。一気に不景気となったことで銀行や工場が倒産、農産物の価格も下落し、多数の失業者が出る事態となりました。 米ルーズベルト大統領が「ニューディール政策」を打ち出し、政府主導によるダム建設などの公共事業を実施や農産物買取などの政策実施により雇用や経済などを安定させました。
3.国際金融機関の支援や通貨切り下げ
1990年代のアルゼンチンは、兌換制(1ドル=1ペソの固定相場)の下で自由開放経済政策を促進した結果、ハイパーインフレの収束と投資の増加により高い成長率を達成しました。このような背景から外国資金の流入額は90年代に入り年々増加、通貨危機で資本流入が停止状態となっていたアジアとは対照的に1998年にはピークを迎えました。しかし、1999年1月のブラジル金融危機の影響もあり経済が急速に冷え込みはじめたことと、国外からの継続的な資金流入により対外債務残高が巨額な水準に達してしまったことなどが、海外投資家にとってアルゼンチンに対する不安感を強めさせてしまい資金流入を止めてしまいました。
このような経済危機と外貨不足のなか、アルゼンチン政府が1,320億ドルにのぼる公的債務の一時支払停止を宣言したことで金融危機が表面化、さらに自由変動相場制への移行を実施しました。
1997年7月にタイを震源としてインドネシア、マレーシア、韓国などアジア各国に伝播した自国通貨の大幅下落と経済危機のこと。ちなみに、翌年にはロシアやブラジルなどアジアを超えた地域にも影響が及びました。1990年代の東南アジアは世界の成長セクターと呼ばれ高度成長を遂げていましたが、1997年5月中旬、欧米ヘッジファンド等の機関投資家によるタイの通貨バーツの大量空売りを受けて、タイ中央銀行はドルペッグ制の維持のためバーツ買いの為替介入を実施しました。これにより、バーツを始め東南アジア各国の地域通貨が暴落、深刻な不景気となりました。
IMF(国際通貨基金)や日本など緊急支援をタイに行いましたが、アジアの他国にも波及すると、IMFや世界銀行などが主導してインドネシアや韓国に救済融資が行われました。ただ、IMFは支援融資の条件として、公共投資の抑制といった緊縮財政による財政健全化を強く求めたことで、各国はそれぞれ異なった対応をすることになりました。
ロシアの通貨ルーブルの暴落やルーブル建て国債の債務不履行など一連の経済危機のこと。1990年代のロシアは、石油やガス、金属、木材など天然資源の輸出に依存していたことで世界の景気動向に影響されやすい状況でした。1997年に起こったアジア通貨危機により世界景気が大きく後退し、主要輸出産品価格が大きく下落したことでロシア経済をさらに悪化させてしまいました。これにより、1998年8月17日にロシアはルーブルを切下げ、民間対外債務を90日間支払猶予することを宣言したことでルーブルが急落、その後も9月にかけて為替取引の停止を繰り返したことによりルーブルはさらに下落しました。また、米国債売り・ロシア国債買いという裁定取引が破綻したことで、LTCMに代表される大手ヘッジファンドが破綻に追い込まれました。
危機後については、ロシアの産業構造そのものが崩壊した訳ではなかったことから、その後の原油価格の上昇などから比較的順調に回復していきました。
4.体制/制度/政治形態などの大幅変更
米ニクソン大統領が金と米ドルとの交換停止を含む一連の経済政策を発表したことにより国際通貨制度が崩壊、金と交換できなくなった米ドルの価値が急落し世界中に不安を与えました。それまで米国は金と米ドルとの交換をいつでも保証していましたが、ベトナム戦争による軍事費拡大などで財政が悪化していました。これにより金の国外流出過多となり、これ以上の米ドルとの交換できなくなったことが背景にあります。
その後、先進主要国を招いて、新たなレートで固定相場制を続けようとしましたが協調介入では対応できず、1973年に変動相場制を取らざるを得なくなりました。
5.債権の元本削減や普通株への転換
LTCMとは、米国大手ヘッジファンド「Long Term Capital Management(ロングターム・キャピタル・マネジメント)」のことで、世界各国の金融機関や機関投資家、富裕層などから巨額の資金を集めました。FRB元副議長やノーベル経済学賞受賞者などが加わった「ドリームチームの運用」と呼ばれ、高度な金融理論で高い運用成績を上げていましたが、1997年のアジア通貨危機、1998年のロシア通貨危機によってLTCMの予測が外れ、調達した巨額資金の損失以外に高いレバレッジをかけたデリバティブ取引による想定外の損失が発生したことで、世界のマーケットに甚大な影響を及ぼしました。
実際、LTCMの損失が公になると株式市場は暴落し、為替は急激な円高が進行しました。この危機的状況に対して、米FRBによる利下げや大手銀行による救済融資、さらにLTCMは徐々にデリバティブ契約を清算した後に解体することで事態は数ヵ月で収束に向かいました。
6.相場の自律反転
1987年10月19日の月曜日、ニューヨーク株式市場に起こった大暴落のこと。NYダウ工業株30種平均株価は、1日で508ドル(▲22.6%)下落し、「世界恐慌(1929年)」の引き金となったブラック・サーズデーの下落率を上回ったことから「暗黒の月曜日(ブラック・マンデー)」と呼ばれています。1980年代の米国は、財政赤字と貿易赤字の「双子の赤字」を抱えている状況でした。そこにドル安に伴うインフレ懸念が浮上したことに加えて、プログラム売買が株価の下落を加速させたことが原因とされています。この暴落は全世界に波及して各国でも同時株安に陥りました。
日本でも翌日(1987年10月20日)には多くの銘柄がストップ安を記録、日経平均株価は3,836円(前日比▲14.9%)と急落しました。しかし、その翌日から「2,037円高」と急反発、その後も調整鏡面での下落はあるものの、半年後には暴落前の水準まで値を戻しました。